「CARNE y ARENA」つまり、肉と砂。

「CARNE y ARENA」つまり、肉と砂。
 

 アカデミー賞を2年連続で制覇したイニャリトゥ監督の2017年の最新作であり初めてのVR作品である。今年のカンヌ映画祭で上映されたのを皮切りに、メキシコでの上映が始まってから既に4ヶ月経った。だが、まだ作品の持つインパクトが世間に伝播しているとは言い難い状況であり、この作品のかなり特殊な上映にも由来しているのではないかと思う。まず一回の上映を体験できるのは1名のみというVRであるこの作品の特徴がある。一人当たりの時間が15分であり、計算すると1時間当たり4人。毎日9時から真夜中の24時まで15時間の上映を行い一日あたり60人が見ることになる。一ヶ月あたりは1800人。時間の変更など色々あって4ヶ月を過ぎたところで単純計算で約7000人ほどしかこの作品を見ていないことになる。通常の映画の劇場の席数は多いところで500席以上あることを考えると、この作品がリーチしている人数の絶対数が少ないことが分かるだろう。例えば、人気作品であれば、複数館に渡る上映をするので一度の上映でこの数を超えてしまう。またチケットが本当に取りにくい。毎週月曜日にその週と翌週のチケットがネット上で販売されるが、すでに4ヶ月経つにも関わらず、未だに数分で売り切れてしまう人気ぶりである。
 つまり、アカデミー賞の功労賞を受賞したというニュースが入っても、いまだ絶対数として体験している人が少なく、まだこの作品がどういった作品かすら分からない状況がずっと続いている状態である。ましてや日本での上映は現時点(2017年12月)でなく、日本語でのソースは皆無の状態である。未知の大作。インターネットがこれだけ跋扈する世の中で、まだその片鱗すら見せていない作品
 だが、体験した人は、私も含めて、驚きを持ってこの作品を受け止めている。見る前と見た後で、まるで本当に「見ること」「聞くこと」の全てが覆されるような強烈な体験をすることになる。
 一人の男が見に行った体験として、それを記したいと思う。そうするのが、この作品には相応しいように思う。

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 メキシコシティに10年近く住み、ドキュメンタリー番組などの制作などを仕事としている男がいる。便宜的に名前をKと呼ぶ。彼は数年前より移民問題に興味を持ち始め、トランプ大統領就任以降、自身の仕事や個人的な興味含めて数度メキシコーアメリカ国境やメキシコ各地に点在する移民シェルターを訪れた。そこで目にしたもの、聞こえたきた話は非常に彼にとって衝撃的なものであった。
 例えば、とある15歳のホンジュラス出身の少年にメキシコで出会った。少年はホンジュラスの片田舎からメキシコまで自転車に乗ってやってきたという。それまでの道のりは、ジャングル、舗装されていない道路、そして蔓延るギャング達の巣窟、腰まである川、そして延々と真っ直ぐに続く道。そんな場所を自転車に乗って通ってきたという。メキシコに到達した段階で有に数千キロの行程である。彼の目指す先は、アメリカである。少年はKに説明する。生まれ育った地域が危なすぎてもう住むことが出来ない。売り上げの半分以上の商売のみかじめ料を求められる。仕事が全くない。そして尋ねる。「あなたは国境に行ったことがあるんでしょ。どこの国境が通りやすいと思った?(国境を越えるのを)助けてくれる人を知ってるなら、紹介してくれよ」Kは、思わず絶句してしまう。取材で何度か足を運ぶことはあっても、国境を越えるアドバイスを求められるとは思ってもみなかったからだ。それは彼の知る範疇外のことだと勝手に感じていた。仕事で国境を見る、だが俺には関係のない話だろう、と彼は考えていた。だが、ふと彼は思う。でも言われてみればそうだ、彼らはまだ国境を知らない。だが、俺は知っている。知っている俺に聞くのは、確かに理にかなっている。ふと彼もそこに巻き込まれているように感じるし、実際にそうなんだろうと彼は思った。だが、彼はいつも思っている。俺が一緒に国境を越えることは……ないだろう、と。だから彼らがこれから知ることになる国境越えの厳しさを俺は知ることがないんだろうな、と。これだけ沢山の国境を見、そして移民と出会ってはいるが……。
 取材を続ける中で、それぞれの人のそれぞれの話を聞く度に、Kは口を閉じてしまうことが増えた。彼らのリアリティと切迫さを肌で感じ、文字通り返す言葉がないのだ。ただ、彼らの言葉を受け止めるだけで、精一杯である。
 移民達が語る話の中でいつも頭に残るのは、メキシコからアメリカへ渡る際の最後の危険との対峙である。メキシコーアメリカの国境には数多くの危険が点在している。近代的な街が隣り合っている場所、山岳地帯連なる場所、大きな川が流れている場所、そして何もない荒野、どこまでも続く果てしない砂漠地帯である。広大な砂漠地帯は、昼暑く夜寒い。水はなく、飢えた動物と、辺りの水を吸い尽くすサボテンがいるばかりである。
 

 イニャリトゥが元々移民問題に関心を持っており、それに即した作品を作っていることは有名でありKもまた知っていた。Babelでは正に国境地帯の砂漠を歩き回るメキシコ人女性が描かれた。Biutifulではスペインに移民している中国人が登場した。アカデミー賞を受賞した二つの作品も言ってみれば「越境」がイニャリトゥの根底にあるとKは考えていた。そんなイニャリトゥが同じくメキシコ出身のチーボとタッグを組んだ新しい作品。テーマは移民。しかもVR作品であるという。一体、どんな作品に仕上がっているのか。興味は尽きない。公開直後にメキシコ大地震が起こり、他にも様々な仕事を抱えていたKがチケットを入手出来て見に行ける頃には、既に公開から4ヶ月経っていた。


 良く晴れた寒い日だった。朝から気温が低く、メキシコシティでは珍しく午前中は5度ほどだった。Kのチケットは朝9時から始まる。その日の最初の上映であった。上映会場に余裕を持って30分以上前に到着し、指定の場所まで足を運ぶ。メキシコシでの上映はメキシコシティのトラテロルコ広場の隣にあるメキシコ国立自治大学、通称UNAMの分校で行われていた。上映場所は普段は展示会などで使われる会場。入り口には、見覚えのあるフェンスが立っているのが見えた。そのフェンスは実際に彼も国境で目撃した【国境の壁】であることがすぐに分かった。実際にKが国境で目撃した壁は、分厚いトタン屋根のような波打った資材を使用して作られたもので、所々に指一本分ぐらいの【穴が空いて】いた。なので、メキシコからアメリカを、アメリカからメキシコを【見る】ことは可能な壁だったが、これを【越える】のには労力がいる。なにせ優に3メートルはありそうな壁で、垂直に切り立った壁は上るのも降りるのも普通の人であれば難しいだろう。例えば、女性や子供などは越えるのはまず不可能に近いだろうと思った。だが、もしかしたら、不可能を何かしらの方法で可能にしているのだろうと、Kは思う。でなければ、アメリカで出会ったおびただしい数の不法移民は、どのように入国したのだろうか……
 国境の壁の奥に上映会場の入り口がある。ただまだ鍵は閉まったままだ。だからKも入り口の前で待った。待つ以外の選択肢は、メキシコにおいてあまり存在しない。無慈悲なまでに誰かを捜し回っても、焦っても、叫んでも誰も助けてくれない。それがこの10年で学んだことだと、待ちながら考えていた。時折吹く風が、身体を冷やした。待てど暮らせど一向に誰かが来る気配を感じられなかった。そして、上映予定の9時になる。深いため息をつきながら、Kは彼の次の番のメキシコ人と一緒に待ち続けた。

 やっと上映の9時を過ぎてから係の人間がやってきた。チケットを渡し、また数分待ってから会場に入ることが出来た。会場に入るとCarne y Arenaと書かれたポスター。一脚のソファ。そして小さな一人用の上映場所への入り口の扉がある。遅れるというハプニングに見舞われながらも未だ待たされ続けており、ふと上映会場の隣にあるトラテロルコ団地の一棟の建物が見えた。団地の建物にはChihuahua・チワワと書いてあり、そこは今回の舞台と思われる国境の砂漠がある州の名前だ、と彼は思った。チワワ州は、Kも数度訪れたことがある。特に行ったのは、シウダー・フアレスという街で、数年前まで世界最悪の治安の場所と呼ばれていたし、実際にそうだった。アメリカと国境を接している街である。対岸はエルパソという、アメリカの中でも危ないと言われている場所である。だが、フアレスから見ればエルパソはよっぽど治安がいい。アメリカで最低の治安の場所ですら、対岸のメキシコの街の治安の悪さの足元にも及ばない。そんな場所である。

 CHIHUAHUAと書いてあるビルが見える。また1968年のメキシコオリンピック直前に学生デモを対象とした虐殺が起きた場所でもあり、その「CHIHUAHUA」の建物の目の前でメキシコ軍からの容赦ない発砲が一般市民に向けられて行われた場所であることを思い出していた。上映前の短い時間の間に何故か不思議な因果を感じてしまい、Kはその建物を眺め続けていた。

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 裏からは上映前のインスタレーションなのか、それとも上映の準備なのか時折轟音が聞こえる。Kは、野獣列車のことを思い出す。確か移民が北に向かうために乗るあの列車が横を通るときも、こんな轟音がしていたと思い出した。そして、電子音。イニャリトゥの映画ではおなじみの透明感のある環境音楽レヴェナントにも確か坂本教授が起用されていたことを思い出す。Kの次の番の男性、そしてその次の女性が続々と部屋に入ってきて待っている。まだ始まらないのかという不安が頭をかすめる。だが、係員は突然現れた。不意に何の準備もなく、まるですでにそこにいたかのような口ぶりでKに説明をした。
 「その扉を真っ直ぐ入ったら説明を読んでください。そこに今回のメッセージが書かれています。そうしたら右の扉に入ってください」なるほど、入って右にまた扉があるんだな、とKは思う。「あと、携帯の電源を切ってください」Kは携帯電話を切ってから係員に見せる。「では、進んでください」
 Kが扉を開けるとイニャリトゥ監督からのコメントが書かれている。英語とスペイン語で表記されている。Kは、既にネット上で読んだものと大差ないと思い斜め読みし先に進む。さぁ、この扉を開ければ、ついにVR会場かと思って開けると、そこは数脚の鉄パイプのベンチが並び、脱ぎ捨てた古びた靴が無数に置かれている部屋だった。真っ白な壁を見ながらKはすぐに気づいた。

「あぁ、待合室か」一人音にもならない呟きがこぼれる、アメリカである日突然捕まってから数日間同じ部屋で拘束される部屋。メキシコへ、ホンジュラスへ、グアテマラへ、エルサルバドルへ強制送還される前に数日間も待たされる部屋。壁にまたスペイン語と英語で表記が書いてある。「靴と靴下を脱いでください。そしてそれをロッカーに入れてください。合図が鳴ったら次の扉に入ってください」なるほど。靴と靴下を脱ぐK。床が凍えるように冷たく、思わず足を浮かせてしまう。メキシコシティがこれだけ寒いのも珍しいので、床に足をつけるのをためらってしまう。正面に別の説明が書いてある。「これらの靴はアメリカの国境警備隊に捕まって人達の靴でゴミから回収したものです。またある靴は、アリゾナの砂漠で見つかったものです。2012年から6000人以上の人達が、砂漠で死んでいます」Kは、振り返って靴を眺める。靴はどうやら本物の移民の人達が履いていたものだったと言うことで間違いないようだった。革靴、運動靴、女性ものの靴、サンダル、子供の靴。小さいものは、10センチに満たないような靴も何個もある。多くの靴はくたくたに古びており、その役目を全うできたのか、または志半ばで朽ち果てたのか、既に元の主とは別れている靴達だ。特に、女性ものの靴はまるで運動靴でもないパンプスのような靴もある。合図はなく時間が過ぎていく。他に、ぼろぼろになったサンダル。これで砂漠を歩くというのか。Kは知ってはいるものの、改めてそれぞれの靴をゆっくりと眺める。一通り眺めた後、待っているのにしびれをきらしたKは「もしかして既に始まるのかもしれない、俺の理解不足でこの部屋で待っているだけで、本当は向こうに行かなければいけないのかもしれない」と思い、扉に手をかける。

 すると突然、スピーカーから声が聞こえた。

座りなさい。待ちなさい。合図があったら入りなさい」

 それは、命令口調で言われ、部屋と同じように冷たく簡潔に言われた。

 再びメッセージを眺めるK。2度ほど読み返す。スペイン語を読み終わった後、また英語を読み返す。読み返しても、同じ意味なのは分かっているが読み返してしまう。また靴を見返す。そして、この靴の持ち主達のことを想像してみる。これだけ多くの靴がちりばめられている。広さ20畳ぐらいの待合室に40足以上は散らばっているだろうか。人々がまるでそこにいるかのように感じる。あるものはアメリカに行けただろうが、あるものは死んでしまっただろうなと思う。死んだものは、もしかしたらここの靴を求めてこの部屋にい戻ってきているかもしれないという薄ら寒い感覚がKの脳裏を過ぎる。まるで亡霊たちの部屋だな、と思う。もしかしたら今まで出会った移民達も、誰かは死んでしまったかもしれないという考えが頭に浮かんできた。ホンジュラスの少年は、Kが渡した使い古しの半袖のシャツを着て旅立っていった。あの俺の着ていた水色の半袖のシャツを着て、少年はどこまで行けたのだろうか、と彼は思った。少年は一度ホンジュラスに電話をかけた。母親に心配しなくていいと言う電話だった。電話が終わった後、彼の瞼が涙に濡れているのは今も忘れられない光景だ。いろいろな思い出を思い返しながら静かな部屋でただひたすらに絶えじっと待つ。すると突然赤いランプの点滅と共にアナウンスが聞こえる。「中に入りなさい」オーケー。
 扉を開けると、薄赤い照明がたかれ部屋の中心に男が二人立っているのが見える。足に土の感触を感じる。サラサラとした土で、ひんやりと冷えていた。部屋は砂漠を模して作られていた。向かいの壁には会場の入り口にあったのと同じ国境の壁がある。その隣の壁は砂漠の光景が描かれている。だが、照明があまりにも赤く、そして暗いためにあまり周りを認識することが出来ない。ただ漠然と眺めることしか出来ない。二人の男の前まで歩くとKに言った。これからこのリュックサックを背負ってください。長さは自分で調節して」リュックサックには、天井から何かのコードが伸びていた。重さはそこまで重くない5キロもないぐらいだなと、Kは思う。そして、VRのゴーグルが渡される。「メガネを外して、メガネをゴーグルの中に入れてください」Kは言われたとおりに、メガネをゴーグルの中に入れる。「あなたはこれから自由にしていいです。どこにでも歩いて行って良いです。ただ走るのだけは駄目です。走ってはいけません」「もし壁にぶつかりそうになった場合は、合図を出します。背中を引きます。そうしたら止まってください」わかりました。Kは短く答える。

「では、始めます」
 Kは砂漠の中にいた。夜なのか、空は暗い。誰もいない砂漠。孤独を感じる。足の感触を感じる。砂漠の中を歩く。地面が見える、地平線が見える。そして空が見える。砂漠にKは一人だけのようだった。まるで取り残されたかのように。歩く。地平線に向かって。すると、突然背中を引っ張られる。そうか、そこは壁か。なるほど、とKは思った。
 気づくと周りに人が集まり始めている。数人の人間がいるのが見える。彼らは集団で捌くの中を歩いてきたようだった。勿論、アメリカに入ることを【法的に】許されていない集団だ。若い男、中年の男、中年の女性とその娘とおぼしき人物、若い女性とかわいい小さなバッグを背負った子供。10人いないぐらいのグループが目の前にいる。彼らは長い距離を歩いてきたのか、非常に疲れ切った表情がみえる。その表情も近づくとありありと見える。Kは透明人間になった気分で、人々の側に寄ってみようかと思うが、少し躊躇する。一瞬頭の中に、本当に彼らは俺のことを見えてないのだろうかと不安になる。こんな砂漠の中なのだ、いくら作品といえども、彼らの直ぐ側にまで行ってしまうのは少し気が引ける思いもする。
 それに怖い。何か分からないが、彼らのことが非常に怖い。彼らは法を犯してまでアメリカに入国しようとしている人間なのだ。お金を払って見物に来ただけの自分とは違うのだ。覚悟が違うだろと、Kは思う。それと同時に、今まで取材の中で出会った数多くの移民達の事を思い出す。実際に話せば、普通の人達だった。恋人がいたり、子供がいたり、母親がいたり。行きたくないと泣いた姿も見た。それでも、何も言わずに行く背中も見た。それを思い起こして、彼らの直ぐ側に寄ってみようかと思う。そこで一人ずつの側に寄ろうとして移動を開始する。砂漠の中だが時間はない。突然、帽子をかぶった男が振り向く。Kと身体がぶつかりそうになる。間一髪のところで避けて、倒れそうになる。危ない。中年の女性が横たわって足を押さえている。その隣には、娘とおぼしき女性がいる。長い距離を歩いてきたのか、足に何かが刺さったのか非常に痛そうだ。何かを叫んでいる。何を言っているのか分からないうめきのようにも聞こえる。
 突然、轟音が鳴り響いた。ヘリが空中を旋回しながらサーチライトを照らしながら近づいてくる。身を隠さなくては。だが、身を隠せるような大きな障害物などない。出来ること言えば身体を伏せることぐらいだ。次の瞬間、けたたましい車の音。気づけば3台の車が到着している。この砂漠で。この世の果てのような誰もいない場所で、遂に出会ってしまった。よく見つけたな、と思う。そして、誰が乗っているのか。死ぬかもしれない。相手がもしマフィアであれば、全員死ぬだろうと思った。どんな殺し方をするのかは分からないが、殺されるだろうと思う。その殺し方は出来れば、想像できる範囲のものであって欲しいと思う。
 降りてきたのはアメリカの国境警備隊であった。全員、銃を構えながら非常に興奮した状態で迫ってくる。威圧的よりももっと強い形容詞を当てはめたいほどに、圧がすごい。彼らの口調で場の緊張が一気に高まる。彼らは、言葉で移民達を制圧しようとする。Kは、思わず後ずさる。離れた場所で見てなければ。もしかしたらすぐに発砲があるかも。もし誰かが銃を抜けば銃撃戦になるだろう。全員死ぬかもしれない。誰も見てない。ここにいる人間達しか見てないのだから。ここには移民達と国境警備隊と、そして俺しかいない。目撃しているものは全て当事者である。当事者以外でこの光景を目撃しているんは、初めてかもしれないと、Kは思う。これが彼らが砂漠で見る/見たものなのかとKは思う。そして、震える。怖い。怖い。俺は、耐えられそうにない。目をつぶろうかと思う。だが、彼らの声は止まない。倒れている母親が必死に何か叫んでいる。
 場面が変わる。唐突に。砂漠の中にテーブルが置かれている。そこには倒れていたはずの母親が座り、娘が座り、他の人達が座り、砂漠の中に家族のような光景が出現し、そして机の上に炎が浮かんでいた。それは何かを燃やした炎ではなく、自然に空中で燃えている炎だった。魂と呼ばれるものかもしれない。何故かそれが机のうえにあり、遠いところで女の声の子守歌が聞こえる……
 警備隊が遂に怒鳴る。「誰が案内人だ、誰だ?」必死になって、案内人のポジェーロ(案内人をこう呼ぶ)を探している。銃を構えたまま、一人一人の移民に近づく。もう諦めているもの、変わらず叫ぶもの、倒れ込むもの、何を考えているのか分からないもの。全てがそこにある。そして、案内人とおぼしき人間が前に出る。全員が今、車に向かって搬送されそうになる。Kはそれを見ながら、もう終わる。この一瞬の出来事も、ここで終わると、思う。皆が車に乗ってしまえば、それで全て終わるのだ。一度、全てリセットになってしまうのだ。ホンジュラスからの旅路も。道で壊れかけた自転車も、履き潰された靴たちも。Kはそっと彼らに近づく。
 その瞬間、突然銃口はKに向けられた。そして、叫び。

 What are you doing here?

 砂漠は夜が明けようとしていた。誰ももういなくなった。また砂漠に一人取り残された。そこはこの夜の果てみたいに孤独である。誰もいない。砂漠に取り残された。オレンジ色に染まった夜空が見える。同じ砂漠。いつものように誰もいない。誰もいない場所で、死んでいくのかな、とKは思った。
 「終わりです」突然、肩を叩かれる。あぁ、あぁ。とKは言葉にならないうめき声をあげた。「帰りは別のドアです。あそこの扉に入って、ロッカーにあなたの靴が入っているんで取り出して帰ってください
 Kは、靴を履いて座り込む。
 完全に変わってしまった、と思った。見る前と見た後で、目の前に見える光景が変わった。何かが確実に前に進んでしまったような気がする。何が変わったのかは今は分からない。ただ、もう戻れない場所に進んでしまったと思う。進まされてしまったと思う。望む望まずに関わらず。たとえるなら、それは恋を知ってしまったような、誰かを傷つけることを知ってしまったような、誰かを失ってしまったような感覚。絶対的な何かが、少なくとも、変わってしまったのだと。この上映で涙を流す人もいるだろうと、Kは思った。 

 だが彼は、涙すらでなかった。涙よりも大切なものが流れてしまったような気がした……

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 イニャリトゥは言う。この映画では、観客が発見をするのだ、と。監督に出来ることは20%もない。他は全て観客が発見していくのだと。確かに、映画は今まで、このように見るという意図がちりばめられ、ある種の謎解きを行うことも増えていった。だが、制作者すら意図していなかった何かを発見するということが、この作品にはある。それはVRというフォーマットの特性なのかもしれないし、扱うテーマなのかもしれない。少なくとも数多くの優れた作品がそうであるように、この作品も無数の見方のある作品であると言える。映画を観るということが本来持っている力。それは個人的な体験であるということ、そして観るものに委ねられるということである。全ての映画は個人的な体験であり、それが全てである。
 「CARNE y ARENA」つまり、肉と砂。
 あの砂漠に、確かにあった。

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